市谷亀岡八幡宮

市谷亀岡八幡宮は、三韓征伐を行ったとされる神功皇后を母にもつ応神天皇を祭神とし、武神・軍神として、戦時期には戦勝や武運を祈る場として親しまれました。明治期以降は陸軍士官学校に隣接し、陸軍省所管の境界石が残るなど、戦争と軍事の痕跡が刻まれています。

境内に残る「八紘一宇」碑は、当時の国家が掲げた理念と信仰を結びつけ、現代にもその余韻と問いを残していると言えます。

創建は太田道灌の時代にまで遡る由緒ある神社ですが、1945年の東京大空襲によって社殿や境内の建物は焼失してしまいます。残された銅鳥居は、神田鍛冶町の鋳物師・西村和泉家5代目・西村和泉藤原政平によって造られたもので、戦前から続く技術と信仰のつながりを今に伝えています。

長谷川時雨旧居:女人芸術社

長谷川時雨旧居は、1928(昭和3)年から1932(昭和7)年まで、劇作家の長谷川時雨(1879~1941)と小説家の三上於菟吉(1891~1944)の旧居として使われ、女性芸術家の創作と表現の場である「女人芸術社」が結成された場所です。ここでは、長谷川時雨が発行した女性のための文芸雑誌『女人芸術』全48刊が刊行され、多くの女性が自らの声を社会に届ける試みが育まれました。

長谷川時雨は1879(明治12)年に東京市日本橋区(現:中央区)に生まれ、幼少期から邦楽や歌舞伎に親しみ、劇作家として活躍しました。一方、三上於菟吉は1891(明治24)年に埼玉県北葛飾郡桜井村(現:杉戸町)に生まれ、早稲田大学で英文学を学びながら創作活動を行い、大衆小説家としても名を知られるようになりました。二人は1916(大正5)年頃から交流を深め、共同で女人芸術社を支えることとなりました。

女人芸術社は、当初1923(大正12)年に創刊されましたが、2号で中断してしまいます。その後、1928(昭和3)年に三上の資金援助を得て再開され、1932(昭和7)年まで計48冊を刊行しました。執筆者には、野上彌生子、神近市子、高群逸枝、宮本百合子ら中堅の女性作家に加え、円地文子、佐多稲子、林芙美子、矢田津世子ら若手作家も参加しました。

この旧居で生まれた創作活動は、戦争の影響がまだ及ばない時期の出来事ではありますが、社会の規範や日常の制約の中で表現の自由を守ろうとする営みは、平穏を求める行為でもありました。ここでの活動は、個人の精神的自由や文化の多様性を守る試みであり、人々が平和な時間を模索し、自己表現を通じてその平和を形作ろうとした痕跡を今に伝えています。

大日本印刷市ヶ谷工場跡

ここ、長延寺谷町の地は、かつて大きな池が広がる谷地形でした。幕末から明治初期にかけては低湿地帯で、生活環境の厳しい地域として、多くの人々が身を寄せて暮らしていました。その後、1876(明治9)年創業の「秀英舎」を前身とする大日本印刷による工場の建設が進みました。地域の人々も新たな働き口となったと言われています。直接的に戦争の影響を受ける場所ではありませんでしたが、貧困や社会の不安定さと向き合う地域性、軍事関係機関の周辺に位置していたことから、戦禍の中でどのような役割を果たしていたのか考える手がかりともなります。

2025年現在、工場は解体され、隠されていた谷地形が再び姿を現しつつあります。谷の起伏と土地の記憶を感じられるのは今だけのチャンスかもしれません。

柳田國男旧居跡

コースから少し足を伸ばしたところに、日本民俗学の父と呼ばれる柳田國男(1875~1962)の旧居跡があります。柳田は、1901(明治34)年から1927(昭和2)年までの約27年間暮らし、多くの文学者や研究者と交流しながら、日本の民俗や生活文化の記録に取り組みました。

この旧柳田宅では、小説家・水野葉舟の紹介により、柳田は岩手県遠野出身の佐々木喜善(1886~1933)と出会います。佐々木は当時早稲田大学の学生で、文京区水道一丁目(現・凸版印刷小石川ビル付近)に下宿していて、柳田の求めに応じてたびたびこの地を訪れ、故郷に伝わる不思議な話を語りました。その語りをもとに119話をまとめたものが、1910(明治43)年に『遠野物語』として発表されたのです。

市ヶ谷記念館

現在の防衛省の敷地内に置かれる市ヶ谷記念館は、かつてこの地にあった、陸軍士官学校の一号校舎でした。

1945(昭和20)年の東京大空襲によって、同地の西側一帯は壊滅的な被害を受けました。1946(昭和21)年には、市ヶ谷記念館が極東軍事裁判(東京裁判)の会場として使用され、平和を法と秩序の下で再構築する象徴的な場となりました。
また、1970(昭和45)年には、作家・三島由紀夫が割腹自殺をしたことでも知られています。

合羽坂

靖国通りと立体交差する外苑東通りの側道の坂は、「合羽坂」と呼ばれています。かつて尾張藩邸の南側に位置し、藩邸の長大な塀に面していました。また近代には、同地に陸軍士官学校(現:防衛省)が置かれたことから、軍人たちが日常的に往来していたと想像できます。

坂の名「合羽坂」は、雨上がりに藩邸の塀沿いで雨具・合羽が干されていたこと、あるいは坂下の淵に河童が住むという言い伝えられたことに由来します。現在では、当時の面影は薄れていますが、坂の名に当時の生活や風景の記憶が静かに息づいています。

また、近隣の紀伊国坂は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』の一篇「狢(むじな)」の舞台となっています。いわゆるのっぺらぼうの話として有名ですが、「濠には人を化かす狢が住む」と伝えられていたようです。江戸市中にムジナやカッパというのは何か不思議な気がしますが、当時の人びとの日常は、意外にも怪異と近いところにあったのでしょう。

津守弁財天

徳川家康が鷹狩りの際、近くの井戸水で策(むち)を洗ったところ、その澄んだ水が注いでいた池を「策(むち)の池」と呼ぶようになりました。1683(天和3)年、美濃国高須藩主である松平摂津守がこの付近を拝領し上屋敷としました。庭園の池や湿地に包まれるように佇むその姿は、藩邸の守り神として、水の神として祀られていたことを彷彿とさせます。

1872(明治5)年、政府による廃藩置県が発令されてこの池が解放されると、花街として整備され、近くには陸軍士官学校が置かれたことで、軍人たちの遊び場としてもにぎわうようになりました。信仰の対象は水神から、芸能や芸事をつかさどる弁財天へと変わり、人々の暮らしや楽しみの中で、ささやかな安心や喜びをもたらす存在として受け継がれてきました。

⾦丸稲荷神社

大通りから少し奥まった場所に静かに佇む金丸稲荷神社は、かつて松平摂津守(美濃高須藩)の屋敷地の守護神として創建されました。松平家は尾張徳川家の分家であり、幕末には徳川慶勝・一橋茂栄・松平容保・松平定敬という兄弟を輩出し、幕末の動乱に深く関わった名家です。そうした屋敷地に起源をもつ神社として親しまれています。

明治期に入り藩邸は姿を消しましたが、庭園は景勝地として保存され、その周囲には花街が形成されました。金丸稲荷は地域の守護神として信仰され、生活の営みや娯楽の中にひそやかな安らぎをもたらす存在となりました。また、近くに陸軍士官学校が置かれたことで軍人たちの遊興地としても栄え、地域の花街文化と軍都文化を象徴する存在となります。

こうして金丸稲荷神社の歴史を辿ると、戦乱の渦中にあった名家の屋敷から、日常の営みを守る神社、そして花街や軍都文化と結びつく場所へと、移りゆく時代に合わせて役割を変化させ、人々の暮らしとともにあり続けていることが分かります。

西念寺

西念寺は、1594(文禄3)年、徳川家家臣で伊賀衆頭領の服部半蔵正成によって創建された、浄土宗の寺院です。寺宝として、全長約2.6mに及ぶ服部半蔵の持槍が伝わっており、かつての武士の技と戦の象徴を今に伝えています。しかし、1945(昭和20)年の東京大空襲により境内も被害を受け、槍の先端と柄の部分が焼失してしまいました。

正成は「鬼の半蔵」として知られ、1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦い、1590(天正18)年の小田原攻めで功をあげ、家康の江戸入府後は、城の警備にあたっていました。「半蔵門」にその名前が残っています。

1579(天正7)年、家康の長男信康が切腹をする際に介錯役を命じられましたが、これを果たすことができず、晩年、信康の菩提を弔うため仏門に入りました。現在の清水谷付近に安養院という庵を結び、これが西念寺の起源になったと伝わっています。

1593(文禄2)年には家康から寺院を建立するよう内命を受けるも、1596(慶長元)年に55歳で亡くなりました。安養院は服部家の菩提寺に拡張されて西念寺となり、1634 (寛永11)年の外堀拡張・新設工事にともなって、現在の場所に移転しました。境内には正成の墓のほか、服部家累代の墓、信康の供養塔が残ります。

平河天満宮

平河天満宮は、1478(文明10)年に太田道灌によって創建され、学問の神として知られる菅原道真を祀る神社です。境内入り口に建つ銅鳥居は、元禄から明治にかけて12代続いた神田鍛冶町の鋳物師・西村和泉家が手がけたもので、千代田区内に現存する江戸期の建造物として極めて貴重なものです。鳥居の左右の柱の台座に施された、獅子の彫刻にも注目してみてください。

1945(昭和20)年の東京大空襲では、銅鳥居や狛犬などが焼損し、戦争の爪痕が色濃く残りました。また、近隣に駐屯していた近衛歩兵第一連隊は、氏子と深い結びつきを持ち、出兵の際には社紋である梅鉢を掲げた「梅鉢隊」として、天満宮を守護神に奉じたと記録されています。

戦後には戦没者慰霊と平和祈念のため、「慰霊平和碑」が建立され、靖国神社の宮司による碑文も刻まれています。この天満宮は、戦争による破壊と悲劇を経験しながらも、人々の平和への祈りを受け継ぐ場として今日に至っています。戦争の時代を反省とともに振り返ることが求められる場所であるといえます。