喰違見附

喰違見附は、江戸城の外門の一つで、1612(慶長17)年頃に甲州流兵学者・小畠勘兵衛によって建てられたと伝えます。見附とはもともと見張りや警備を行う見張所のことです。多くの見附が枡形門を備えるのに対し、ここには真田濠土手の段差へ冠木門が置かれる程度でしたが、簡素で実戦的な防御構造を特徴としていました。兵馬の侵入を防ぐ衝立(逆茂木)に用いられた榎は、のちに自生し現在に至るまで濃い茂みを形成しています。

紀尾井坂の名称は、この周辺にあった三つの大名屋敷に由来しています。現在の上智大学敷地には尾張徳川家藩邸、清水谷公園付近には紀州徳川藩邸、そしてホテルニューオータニの場所には彦根井伊藩邸が置かれており、これら三家の名から「紀・尾・井」の文字をとって「紀尾井坂」と呼ばれるようになりました。

喰違見附周辺は、江戸時代から「昼でも薄暗い場所」として知られ、恐れられてきました。怪異譚や幽霊譚の舞台となったこともあり、江戸後期の儒学者・鈴木桃野の『反古のうらがき』には、首吊り死者の霊「縊鬼」が現れると記されています。現在同見附に面する紀尾井ホールの位置には、かつて華族や富豪の邸宅に用いられた、和洋折衷の瀟洒な建物が建っていました。同所は、1990年代まで新日鐵の迎賓館として使用されていましたが、解体される前後に多くの心霊現象を生じたことが、実話怪談の嚆矢として刊行された『新耳袋』に掲載されています。問題の建物は、いまも渋谷区南平台に移築されて残っています。

また1874(明治7)年には、右大臣岩倉具視が赤坂御所での御前会議から自邸へ戻る途中、この付近で襲撃を受け、真田濠側に転落し殺害を免れたという「喰違見附の変(赤坂喰違の変)」が起こりました。戦後にはGHQ関係車両の事故も発生し、歴史的な戦争・政治・占領の影響がこの地の風景と重なってきました。

今日喰違見附は、江戸城外堀跡として、1956(昭和31)年に史跡名勝天然記念物に指定されています。戦争や政治的事件、怪異譚を通じて刻まれたこの場所の記憶が、地形によって形作られてきたと考えると、実に興味深い場所といえるでしょう。

コメントを残す